算命占星術学鑑定所明学院宇都宮校

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織田信長と明智光秀


織田信長といえば戦国、安土桃山時代の武将であり、戦国動乱を終結させ全国統一の前提を創った名将です。
織田信長の生涯は戦闘に明け暮れる人生でした。

1555年清州城織田信友との戦いを皮切りに、
1560年桶狭間の戦い、1571年比叡山延暦寺の焼き討ち、1573年室町幕府追放、1582年には宿敵武田氏討伐等々、1582年信長の重臣明智光秀の謀反により自害するまで数々の戦に勝ち続け、織田信長の名を天下に知らしめました。

この常勝信長に無くてはならない絶対的存在が明智光秀なのです。
何とも矛盾している様な話ですが、算命占星術学的には信長をあそこまでの名将に育て上げたのは明智光秀であり、信長の人生に終止符を打ったのも明智光秀なのです。

織田信長(1534年6月23日生まれ)、明智光秀(1528年8月17日生まれ)
この二人の相性を算命占星術学的に見てみると、何と大半会と天剋地冲二つの相性が表出します。

お互いの運をどんどんあげる大半会

まず大半会から見てみます。
大半会の相性はお互いが一緒に居るだけで、また意識しているだけで、グングンと運が上がって行くという最高の相性です。
たとえそれがカップル、夫婦であれ上司と部下であれ同僚であれ、相性が大半会であれば二人の運をどこまでも上昇させるという力を持っています。
織田信長と明智光秀は現代で言えば上司と部下、この二人が手を組んで戦をすれば勝って当たり前、そして織田信長の武将としての名声も、どこまでも広がって行くのも当然の事なのです。
明智光秀にも同じ事が言えます。
織田信長との相性の相乗効果によって、信長の家臣として実力以上の力を発揮し、周りの国からも恐れられる家臣に成長する事が出来ました。

しかし、この二人の運気が最高峰に達したとき、大半会の副作用でもある「おごり」が生まれてしまいました。

ここで言う「おごり」とは、「自分一人の力でここまで来られたのだ。」「自分の実力があったから戦を勝ち続ける事ができたのだ。」という気持ちです。それが特に強く表れたのが明智光秀でした。
自分でも天下を獲れるという「おごり」が謀反(本能寺の変)という形で表れました。

しかし、ここで算命学的見方をすれば、二人の相性が大半会だけならば明智光秀も謀反(本能寺の変)をおこす事は無かったということなのです。
この二人の相性がもし大半会だけならば「おごり」が謀反(本能寺の変)ではなく、現代風で言うただの別離になったはずなのです。そして当然別離になれば、二人の相性である大半会の作用も無くなり、お互いただ一国の武将に逆戻りしていたという事です。

なぜ本能寺の変は起きたのか…

では何故謀反(本能寺の変)をおこしたのでしょうか。それが大半会以外の相性、天剋地冲なのです。

これは算命学的にもとても重要はポイントになります。
天剋地冲の相性は,前世からの深い因縁、深い憎悪、憎しみを背負って生まれ今生で出会ったという相性です。ここで言う今生とは戦国時代、16世紀です。
織田信長と明智光秀は既に前世で出会っていたという事です。ただの友人のような生半可な出会いではありません。お互いの家系同士が憎しみ合い、ややもすれば家系をあげて殺し合いをする程の深い憎悪の中で生まれ育ち、出会っていた相性なのです。

天剋地冲という相性は、二人を繋ぎ留める相性としては抜群の力を発揮します。やはり前世からの因縁を背負って生まれてきているだけに、お互い惹かれ合うと自分の命を賭けてでも相手を守り抜くという愛情を示しますが、逆に一度憎しみ合うと、相手を殺してでも自分の気持ちを晴らすという厄介な相性でもあります。
しかし、この天剋地冲の相性は、この時代(戦国時代)には最高の相性であり、主君の為なら命を賭けるという武士道にマッチし、それが大半会の相性と相まって、織田信長と明智光秀の運気をあそこまで引き上げる要因ともなりました。

二人の運が最高峰に達したとき、大半会の副作用「おごり」と共に天剋地冲の副作用である「憎悪・破壊」が顔を出し始めます。相手を殺してでも自分の気持ちを晴らすという憎悪です。
この天剋地冲の「憎悪・破壊」、これこそが謀反(本能寺の変)を起こした最大の原因となったのです。
その本能寺の変により結果織田信長は自害し、その瞬間から明智光秀の上昇運は消えて無くなり、結局彼は、世にいう三日天下で豊臣秀吉に討たれてしまいます。

この算命学相性占技は、一国をも滅ぼすほどの恐ろしい兵器にもなるのです。現に二千年前の古代中国では、この相性占技を使い一国の王の運気を下げ、内側から滅ぼしていったという事実もあります。

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